論理的に話すことが、頭のいいということであり
論理が破綻しているということは、説得力のないこと
ただの感情、個人の意見なので取り扱う価値のないもの
こういった風潮が大きくなっている気がします。
論理なんて、1つのツールでしかない
論理というのは、物事を解決する手段、考える手段の1つであって
結論でもなければ、唯一の方法でもないです。
論理とは、物事の要素を一般化して
大部分の人に物事の体系を理解しやすく、共有しやすくしたもの
これくらいのものかなと思っています。
論理は、ほとんど使わない
問題へのアプローチはいくらくらい思いつきますか?
1、解決する。
2、解決しない、できない
この2つではありません。
・ほったらかしにする
・忘れる
・考えないようにする
こういった方法も考えられます。
そして、人生の問題の9割以上は解決しない問題です。
1週間前の悩み、1年前の問題は綺麗に解決しましたか?
ほとんどが、時間が経ってどうでもよくなったというもののはずです。
論理が必要になってくるのは、解決できる問題であり
その問題が多くの人に共有する必要がある内容である場合のみです。
問題の総数からすると、1%もないでしょう。
論理的思考ができれば、武器として使えますが、論理的思考ができなくても、生活には困らない。
そんな代物です。
なぜ論理がもてはやされるのか?
大きいのはSNSの普及でしょう。
youtubeなどで、大多数に向けて配信する場合、論理的に話すこと、論理的に考えることはとても役に立つスキルです。
そして、youtubeを見て育った人は、賢い人(人にものを教えている人)は論理的思考ができないといけないんだな。
論理的思考ができる人はカッコいい
論理的な思考が一番大事なんだ といった考えになってしまいます。
今は一般的な意見が受ける時代であることも大きな理由です。
「私は、やりたいことをやるか、やりたくないことをやるかで悩んでます。」
こういった悩み投稿への回答は
「やりたいことをやったほうが絶対にいいよ」
こういった回答になります。
こんな問題、複雑で答えなんて簡単にだせるものではありません。
けれど、こういった回答を、質問者も動画を見ている人も求めています。
こうやって、誰にでも分かりやすく、ありきたりな回答が求められているのです。
論理を学ぶメリット
論理が必要な状況というのは、少ないですが
論理が使えると、人生が面白くはなります。
視点が増えるということは、そのものを視点の数だけ楽しめるということになります。
論理が使えると、かしこいと思われます。
論理を王様においている人が多い理由としては、論理的思考ができる人は賢く見えるという点もあります。
賢くみえるだけでなく、実際賢くなります。
なので、賢くみられたい、賢くなりたいという人は学ぶ価値があるものです。
論理は王様ではなく、斥候
論理は王様ではなく、斥候くらいの立ち位置です。
相手(課題)をおおまかに把握して、作戦をたてる時に役立つ情報を届けてくれる役目です。
戦いをリードするのは、斥候ではなく将軍です。
将軍がどのように戦うか判断し、戦いを進めます
そして、その将軍を束ねるのが王様の役目です。
将軍がなんなのか?王様はなんなのか?という疑問については置いておきますが
斥候がいなくても戦いには勝利できますし
斥候が「こうした方がいいんじゃないか?」「ああした方がいいじゃないか?」と声を荒らげても、それを採用するかどうかは将軍の裁量です。
斥候は王様に会うことすら認められないかもしれません。
斥候の方が将軍や王様よりかっこいい!自分は斥候の仕事につきたい!と思うのは自由ですが、
斥候は王様より偉いと考えるのは問題がありそうです。
まとめ
また例え話になりますが
論理は料理における包丁みたいなものでしょうか
包丁はなくても美味しい料理はつくれます
包丁がないなら、手で千切ってもいいですし、ノコギリとかでもいいでしょう。
包丁は画一的に綺麗に切れるので、できあがった料理は美味しそうには見えます。
ですが、出来上がった料理の味に対した違いは生まれません。
お店などで、人に振る舞う場合には包丁で切ったほうが、みんなに同じものを提供できますし、完成品は綺麗なので客には好かれるでしょう。
料理人の中には包丁が命という人がいても、おかしくありません。
包丁が命なのは、それを生業にしている人だけであって
庶民にとっては、包丁は料理器具の1つでしかありません。
包丁があれば、料理が楽しくはなりますが、なくても美味しい料理は作れますし、生きていけます。