ニーチェの著作ではPerspectiveという言葉が使われている。perspectiveは遠近法と訳されるが、適当な訳ではないかもしれない。
だがニュアンスは伝わるので遠近法という言葉で使っていく
世界は遠近法である
ニーチェにとって世界とは私たちが知覚しているものが世界であり、客観的に存在するものではないと考えているようです。
そして、その知覚には遠近法が用いられるといいます。
遠近法は絵を描く際の手法として知られていますが、知覚にもこの考え方が存在し、自分から近いものは大きく遠いものは小さくなるというものです。
例えるなら、他の国が戦争していることよりも、今日の晩御飯はなんなのかの方が重要事項だと考えているのも遠近法によるものです。
純粋に物が存在するということはない
人間は遠近法を通してしか物をみることができない。
従来の科学では物が先に存在しており、人間が後に物の意味を付け足すと考えらているが、ニーチェは知覚することは、自分の考えや見方を通して知覚しているのだから、物が万人にとって同じにはならないと主張する。
このような、世界は自分で作り上げるという考えを構築論と呼び、物には意味が最初から備わっていると考える本質論(運命論)とは逆の思想である。
遠近法の考えがが「神は死んだ」に繋がる
「神はしんだ」これはニーチェの最も有名な言葉だが、これも遠近法の考え方からきている。
世界は自分の認識で成り立っているとするならば、絶対的な価値や存在はないということになる。
100人いれば100通りの神様が存在することになるのだから。
全ては自分の創造物であり、神すらも例外ではない。
自分が光源である
自分が見たもの照らしたものが世界である。自分こそが光源である。
それでは物の見方が偏ってしまうのではないかという批判もあるでしょうが、それでもいいと思います。
他人の光で照らされた世界を強要されるくらいならば
太陽でも月でも星でもなく、自分が世界の光源なのです。
まとめ
遠近法という物の見方、考え方がニーチェの根底にあります。近いものは大きく遠いものは小さく。
隣に座って同じ景色をみることはできるかも知れませんが、本人と全くの同じ景色は本人以外は見れないのです。